ANATOMIE D’ORCHIDÉE
ランの解剖学 ー ランとイメージの創作性 ー


 生命はその誕生の初期から、異なるもの同士が出会い、互いに影響し合いながら思いもよらぬ性質のものへと変質してゆくことで、様々な環境に適応し生育することを可能にしてきた。こうした生命の本質的な側面は、理論生命科学や生物の哲学などにおいて生命の持つ「創発性」と表現され、現在同分野において積極的に研究が行われている。しかし、それが絵画という形で表現された事例はない。自然と人間との調和が重要視されるようになった昨今、生命の持つ本質を改めて見直すことに大きな意義があることに疑問の余地はない。生命の創発性を理論的に理解することは容易とは言いにくい。一方で、こうした生命起源にもつながる根本的な創造のあり様を絵画として端的に具現化することが可能ならば、その作品はこれを広く啓発できるであろうと考えられる。
 ラン科植物は野生において2万5千〜3万もの種が記載されており、この驚異的な繁栄は「共生」によって支えられている部分が大きい。特にランにはそれぞれの種に固有の花粉媒介者がおり、その関係は非常に特殊化していることが知られている。私はこの花粉交配の現場に着目し、ランと昆虫の関わりを描くことで、生命の思いもよらない能力を獲得する性質、すなわち「創発性」を絵画という次元に変換できると考えた。
 本研究の主題であるラン科ハナバチラン属(Ophrys)は、数百種がヨーロッパ地中海地域に自生し、その唇弁が昆虫擬態を思わせる花として知られている。Ophrysの受粉は、ある特定の雄バチが花を同種の雌バチと勘違いして偽似交接を行うことによって成功する。雄バチが雌バチに似た花に抱きつくと頭部に花粉が付着し、次の別の花で再度ハチが騙され、花に抱きつくことで花の雌蕊に花粉が届けられる。本来、縁もゆかりもないランと雄バチの、不思議な営みが構成され、両者が戯れ合いながら互いの「生」の隙間に絡み合うことで新たな性質が引き出される。その関係は常に進化し、また思いがけない異質な存在を取込み合う。このような生物同士で敢えて「隙に付け入る」「隙に遊ぶ」行為がなければ、生命とは進化に対処していくことはできないのだろうと推察できる。端から見たら遊びとも見てとれるこうしたあり様こそが創造のルーツであり、これこそ生命の持つ本質の一つではないかと考えられる。
 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは『リゾーム』という論考によりこの性質を説明している。リゾームとは植物学的用語で「根茎」を指す。リゾームは予定調和的な性質を持たず、地中において栄養生長を続けるだけの器官である。ドゥルーズも論考の中で、ランとその花の送粉者の関係を例に、両者が互いに取り込みあいつつ進化してゆく様子をこのリゾームの構造に見立てている。生命とは、ランと昆虫の関係のような、特に因果関係もなく無秩序に出会い、戯れ合いながら互いを取り込み合うリゾーム状の運動であり成長と捉えることができる。制作の第一段階(第一章)ではランと昆虫の関係をドゥルーズのリゾーム状の動態になぞらえ、ランと昆虫が互いの生殖線上で交叉する様を描き出すことを試みた。
 第二段階(第二章)では、ランと昆虫の交叉する運動に見られる肌理をおった。そこには、ランと昆虫の生成の現場の、想起と予期に伴う様相の質感が現れている。私はこれをランの栄養と生殖という二つの生長サイクルで捉え、その分離・接合する運動に絵画表現を模索した。そのことで、第一段階で取り組んだ「生殖の線」の、より具体的な生物の営みによる可視化、具現化を試みた。
 生命はランと昆虫に見られるように、自分自身の運動に起こる分離を、絶えず同期させ、現在という肌理を絶えず作りつづける。だからこそ自律的な生命であると言え、思いもよらぬ進化(創造)に開かれていると考えられる。第三段階(第三章)では、ランと昆虫が互いの異なる階層性を横断し同期していく営みに、作品を通して人間をも接続する絵画的技法を模索した。
 創造とは、環境変化に応答する自然や生命の創発、さらには人為をも意味すると言える。本研究で制作した作品《生殖の線》の主眼は、ランや昆虫を描くことではなく、生命の有り様から予感する新たな事象を描き出すことにある。ここでは日本画を目的とするのではなく、手段として用いており、その目的は、生命の理解の形態を提示する芸術的展開である。その意味において、本研究における「解剖」とは、ランの内部観測であり、作品として繋がる、ランと昆虫の生成モデルにおけるリアリティーである。私は、自らが制作した作品がもはや生命の創造の位相として、それ自体がランに成り代わって生命のように振る舞い、鑑賞者に新たな世界を想起するよう働きかける存在になることを期待した。描き出される徴候を、絵画というモデルを通して体感させ、今日の価値判断における進化を促す創発的な機会とすることが本研究の実践と目的である。


平成二十二年三月 東京藝術大学 博士学位論文『ランの解剖学 ー ランとイメージの創作性』より